エレンちゃんとの思い出 〈後編〉


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3.
 夏から秋へ、そしてエレンと過ごす2回目の冬。深夜に帰宅した僕は、コーラを飲むためにそっと冷蔵庫を開けました。いつもなら、エレンはどんなに小さな音でも聞きつけて冷蔵庫の前に来ます。僕を見上げながら「ささみをください」と語りかける眼差し。「ひとつだけだよ」。そんな毎日のやり取りが僕をホッとさせてくれました。でも、その日はエレンが現れません。エレンのベッドに目を向けると、暗がりの中からこっちを見ています。僕はボイルしたささみをひとつ手に取って、エレンにあげました。食欲はある。でも、どうしたんだろう?
 次の日、エレンが歩けなくなったことを僕は奥さんから聞きました。急に、ではないらしい。1週間くらい前から後ろ足を引きずるようになった。そして昨日、かかりつけの獣医に診てもらったとのこと。高齢が原因で尻尾と後ろ足の神経が麻痺し始めている。さらに…体の中にはいくつか悪性の腫瘍ができている。忙しい毎日とはいえ、僕はエレンの体調の変化にまったく気付いていなかった。本当にすまないと思う。

 それでもエレンは前足だけで部屋の中を這い回りました。僕がベランダで煙草を吸う時は「外の空気を吸わせてください」と、ズサズサッとにじり寄ってきます。疲れやすくなったとはいえ、もともと散歩やドライブが大好きだったエレン。僕の奥さんはそんな姿を見て、ひらめきました。ストレスと運動不足を解消するために『車いす』はどうだろうと。さっそくインターネットで調べてみると、犬用の車いすを制作してくれる工房が見つかりました。
 埼玉県にある工房でエレンが採寸を済ませた数週間後、車いすは無事に完成。でも、この頃の僕は仕事が忙しく、その場に立ち会うことができませんでした。「エレンを引き取る」と言い出した責任から、というよりもエレンへの気持ちだけで、すべての面倒を見続けた僕の奥さんには本当に頭が下がります。

 車いすを装着したエレンは、久々に公園へカムバック!すぐにバランス感覚を取り戻し、想定以上のスピードで疾走しました。やっぱり、犬は走るのが好き。そして、その後ほんの少しの間だけ奇跡が起こりました。車いすでの運動が功を奏したのか、再び歩けるようになったのです。近所を散歩できるくらいまで。本当に不思議な時間でした。車いすもクルマのバックシートに積んだまま。「治ったのかな?」。でも、魔法が解けてしまいそうで、僕たちはその言葉を口に出せない。そんな矢先、やはりエレンはベッドから起き上がれなくなってしまいました。もう、無理をさせるのはよそう。それが僕たちの結論でした。

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4.
 3月11日、僕は都内の仕事場で、僕の奥さんとエレンは千葉の自宅で地震に遭いました。地震の直前、エレンは珍しく騒いだそうです。吠えながらベランダへと這い出し、僕の奥さんを困らせました。エレンを部屋に戻そうとして、僕の奥さんがエレンの体におおい被さった時があの瞬間です。部屋の中からは棚が倒れて、食器が割れる音。「危険を知らせてるって感じじゃなくって、自分だけ助かろうという意思が見え見え」と僕の奥さん。「でも、エレンがあったかくてホッとした。ブルブル怯えてるわけでもなかったし」。僕の帰りは深夜になったけれど、エレンがいたから不安も少なかった。僕はそれを聞いて、笑った。あの状況の中で、エレンは僕たちを笑わせてくれました。

 その後、エレンの体力はどんどん失われていきました。上体を起こすのも困難で、頭を少し持ち上げるくらい。寝たきりの完全介護です。オシッコの排泄のために管も通しました。ウンチは「出ますよ」と意思表示をするので、その時はお尻からひねり出して、ペーパーでキャッチするという方法。僕は奥さんにやり方を教えてもらい、すぐにマスターしました。ウンチは臭うけれども、たくさん出ているのが元気な証拠。健康のバロメーターだから、我慢しなくちゃ。床擦れも禁物。一日に何度か僕と奥さんで「よっこらしょい」と反転させる。失敗しかけると、エレンは僕だけを睨む。食欲は旺盛。水もシリンジ(針のない注射器)であげるとゴクゴク飲む。相変わらず吠えもしなければ、暴れもしない。大きな瞳で、いつも僕たちを見ていました。体や頭を撫でてあげると、目を閉じて静かに呼吸していました。

 6月のある日、僕の奥さんから電話がありました。「今、エレンちゃんが死んじゃったみたい」「えぇっ!」「いや、待って。あ、生きてる」「えぇっ!」「また、何かあったら掛け直すから」。その日の昼過ぎに、エレンは僕の奥さんの目の前で一瞬、引きつけを起こしたそうです。そして、呼吸が止まった。その間、30秒から1分くらい。動転しないように、でもその事実を確認しつつ僕に電話をした瞬間、「プハー」という感じで息を吹き返したとのこと。その話を聞いた時はホッとしました。でも、油断は大敵。そして、僕たちにはどうにもならない『その日』が近づいていることも確かです。「三途の川を渡るなら、犬かきで。エレンちゃんは多分、気が変わって帰ってきたんだね」僕はそんな冗談を言って、奥さんを泣かせてしまいました。

 前日、またもや仕事で遅くなった僕は深夜3時に帰宅。どうやらエレンを起こしてしまったようです。「起こしてごめんね。おやすみ」。エレンの横に布団を敷いて眠る奥さんを起こさないように、僕はエレンの頭をそっと撫でました。
 「エレンちゃんが…、息してないよ」。夢の中でぼんやり響く僕の奥さんの声。僕を揺さぶりながら、涙目になっている彼女。僕はまた同じ夢を見ていると思った。でも、僕の奥さんの涙が僕のほっぺたに落ちてきた時、夢じゃないんだと気付いた。7月1日の早朝、エレンは息をせずに眠っていました。12歳。本当に気立ての良いジャーマン・シェパードでした。うちに来て幸せだったかな?もっと仲良くなれたかな?最期まで僕は自分勝手な思いを抱いている。でも、今日までしっかり面倒を見てきた僕の奥さんは違いました。「エレンちゃん、どうもありがとう」。
 2人でエレンの頭や体を撫でながら言いました。
 エレンちゃん、本当にありがとう。

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