エレンちゃんとの思い出 〈前編〉

 「エレンちゃんが…息してないよ」。夢の中でぼんやり響く僕の奥さんの声。揺さぶられ、涙目になっている彼女の顔を認めるその朝まで、僕は何度もそんな夢を見ていました。そして、彼女の涙が僕のほっぺたに落ちてきた時、夢じゃないんだと気付きました。リビングの大型犬用ベッドで寝たきりになっていたエレンの口元とお腹に手を当ててみる。7月1日の早朝、エレンは息をせずに眠っていました。12歳でした。

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1.
 エレンちゃんが我が家にやって来たのは、2年前の6月。もともと僕の奥さんの知り合いに飼われていて、その時すでに10歳。仔犬の頃にきちんとしつけられていたので、ムダ吠えもせず、噛みもしないとても気立ての良い女の子と近所で評判だったそうです。
 チャームポイントは垂れ下がった右耳。ジャーマン・シェパードは本来、両耳ともピンと立っているのが良しとされますが、エレンは仔犬の頃に患った炎症がもとで、片耳だけペロンとなってしまいました。でも美人だったので、本人もあまり気にしていなかったみたい。聴覚にも異常なし。愛嬌いっぱいの(留守番が苦手な)番犬として、すくすく育ってきました。僕の奥さんは、そんなエレンが知り合いの家にもらわれて来た時からの仲良し。犬と人間、女の子どうし。とても気が合ったようです。
 うちに来る前から、僕もよくエレンの話を聞かされていました。マルチーズと一緒に飼われていたから「たぶん、自分を小型犬だと思っている」。シャンプーの翌日は必ず天気が悪くなる「雨女」である。仔犬の頃、好奇心で近寄った野良に鼻を引っ掻かれて以来の「ネコ嫌い」である。確かに、ネコにだけは吠えました。

 2年前のある日、仕事中の僕のケータイに一通のメールが。「エレンちゃん、うちに来てもいい?」と、僕の奥さんからでした。“全然ウェルカムですよ!遊びに来るんだね”という気持ちで『OK!』と即答したのは、言うまでもありません。そして仕事を終えて、いつもどおりの深夜帰宅。夜中なので小さな声で「ただいまー」と僕。あれ、ゴローのお出迎えがない。まだリビングの灯りが点いてる。どうしたのかな?と、部屋を覗いてみると…。テーブルやソファの位置が変わってる!リビングの真ん中に広いスペースが作られて、大型犬用のベッドが置いてある。そして、そこには眠たそうな目で僕を見ているエレンちゃんがいました。明らかに「どなたでしょうか?」という表情。「エレンちゃん、ようこそ!ゆっくりしてってね」と挨拶は僕から。エレンは「ええ、ありがとうございます。でも、どなたでしょうか?」という表情のまま。お風呂から上がってきた僕の奥さんは、そんなやりとりを見て言い放ちました。
 「エレンちゃんは、ずっとゆっくりして行くの!ここに住むんだから。OKって言ったじゃん」

 もとの飼い主が、やむを得ない事情によりエレンを飼えなくなったとのこと。「もし、新しい飼い主が見つからない場合は…」という言葉を聞き終わる前に、迷わずエレンを連れて帰ってきたそうです。ゴローもウェルカムの意思を表明したそうですが、ペットOKマンションとはいえ、2頭は無理。だから、ゴローはすでに実家へ里帰り。僕が帰宅する前に、ほぼすべての準備が完了していました。
 エレンを飼うことに反対はしない。でも、やり方がちょっとズルい。僕のギターやベースがクローゼットに片付けられた。思った以上にエレンが僕に人見知りする。そもそも僕は犬好きだけど、大型犬は初めて。しかも、何もかもがいきなりすぎる!そんなこんなで、ひと悶着もふた悶着もあったことは事実です。OK、わかったよ。エレンちゃんは何ひとつ悪くない。ようこそ我が家へ!そんなふうにエレンとの生活が始まりました。

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2.
 初めての大型犬との暮らし。それは心配していたほどの大きな変化はありませんでした。毎日の散歩や時々のシャンプーは僕の奥さんの役目。食事の管理もそう。毎朝5時、必ず顔面に飛び乗ってくるゴローに比べたら…エレンはほとんど手のかからない良い子でした。我が家は平和な朝を迎えるようになり、僕は何にも世話をしなくなった。時々、鼻フックをしてみたり、ヒゲを引っぱってみたりするくらい。テンションが上がった時に部屋中を跳ね回り、水の皿や花瓶をひっくり返すこともあったけれど、そんなことは人間でもあるし。むしろ気がかりなのは、いつまでたっても僕になつかないこと。警戒するでもなく、怯えるでもなく、どこか他人行儀。今までの人生、大人にも子供にも犬にもネコにもウサギにも慕われてきた(はずの)僕にとって、これはちょっとショックでした。

 去年の春にはエレンを連れて、会津磐梯山へ。何をすると決めたワケでもなく、犬OKのペンションを予約して、おいしい空気を吸いに行く贅沢。ひたすら磐梯山をエレンと一緒に散歩して回りました。元獣医さんというペンションのオーナーにも気に入られ、お腹を見せて転がってみせるエレン。僕には一度も見せたことのない、リラックスした表情でした。長年、犬を見てきたオーナー曰く、エレンが僕になつかないのは「10歳以上になってから、うちに来たから」「僕の奥さんがいて、寂しくないから」とのことです。まあ、それは何となく分かっているけれど…。「エレンちゃんの余生が、少しでも楽しいものになりますように。あなたたちにもらわれて、幸せだったと思えるように」「無理に仲良くなろうとして、プレッシャーを与えないように」と言われました。確かに、そうかもしれない。

 夏頃からエレンは散歩をするとちょっと疲れるようになりました。しばらく歩くと「もう帰る」とこっちを向く。体重は30kg以上。抱っこして連れて帰るワケには行かないので、そんな時は無理をしない。適度に運動したらサッと帰る。エレンが人間だとしたら、もうとっくにお婆ちゃんだってことを僕が忘れていた。それも気高いお婆ちゃん。そう簡単には尻尾を振ってくれないし、疲れやすいのも仕方がない。
 たまに僕とエレンの2人で一日を過ごすこともありました。僕がアーケイド・ファイアや『ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル』のレビューを書いている間は仰向けになって、ずっと眠っていたことを覚えています。お腹が空いた時だけ、僕を小突きに来た。大きくてあったかいエレンの頭をナデナデしながら、書き上げた原稿を読み返すのがいい気分。「なんか、文豪っぽいね」。そんな僕に、エレンはいつも「ふぅ」っと溜め息をひとつ。少しだけ仲良くなれたかな。 

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〈後編〉に続きます。