My Best 20 Albums Of 2014

まずは、20位〜11位です。ピクシーズなめんなよ!
20. V.A.『Beck Song Reader』

19. PIXIES『Indie Cindy』

18. DAMON ALBARN『Everyday Robots』

17. BROKEN BELLS『After The Disco』

16. FLYING LOTUS『You're Dead!』

15. U2『Songs Of Innocence』

14. BECK『Morning Phase』

13. WILKO JOHNSON & ROGER DALTREY『Going Back Home』

12. JACK WHITE『Lazaretto』

11. ENO・HYDE『High Life』

今年は色んなところにブライアン・イーノ。だから、僕にとってはうれしい1年だった。ENO・HYDE名義でリリースされた2枚のアルバムは、その短いリリース・スパンも含めて楽しい驚きに満ちていた。歌を中心にした『Someday World』、カール・ハイドのギターと緻密なポリリズムでグイグイ押し切る『High Life』という両作はアプローチの違いはあるけれど、“開かれた”フィーリングが共通している。それは、デヴィッド・バーンとイーノの共作『My Life In The Bush Of Ghosts』(81年)と『Everything That Happens Will Happen Today』(08年)を「20ン年も寝かさずに、サクッとやってみました!」的な感じで最高! “ライクティ(スティーヴ・ライヒフェラ・クティ)”というコンセプトに貫かれた実験性とのバランスも素晴らしかったと思う。


デーモン・アルバーン『Everyday Robots』やオーウェン・パレット『In Conflict』にもイーノが参加してることを知ったときはうれしかった! 興味深いのは、デーモンもオーウェンもイーノをプロデューサーではなく、プレイヤーとして招いていること。元々プロデューサーとしての資質にも恵まれた2人の「プロデュースしてもらうのではなく、自分の音楽の一部として」イーノのサウンドを取り入れる、というアイデアが面白い。“うたごころ”を見せたときのイーノのウォーミングな感覚がしっかり活かされている。それが狙いだったのかも。


対照的だったのは、今までイーノにお世話になりっぱなしだったU2と時々お世話になっていたコールドプレイがそれぞれ、イーノ不在で新作をリリースしたこと。U2はデンジャー・マウス(とポール・エプワースとか)、コールドプレイはポール・エプワース(とアヴィーチーとか)。結局、ポール・エプワースかよ!ってね。でも、良いアルバムだったから安心したけど。次はまたイーノにお願いするのかな。


ちなみに、最後まで迷ってBest 20に入らなかったのは、チボ・マットHotel Valentine』、プスンブーツ『No Fools, No Fun』、ボンベイ・バイシクル・クラブ『So Long, See You Tomorrow』の3枚でございます。では、いよいよ10位〜1位の発表です!

10. COLDPLAY『Ghost Stories』

9. NEIL YOUNG『Storytone』

8. THE BLACK KEYS『Turn Blue』

7. OWEN PALLETT『In Conflict』

6. LANA DEL REY『Ultraviolence』

5. CONOR OBERST『Upside Down Mountain』

4. SEUN KUTI + EGYPT80『A Long Way To The Beginning

3. JULIAN CASABLANCAS + THE VOIDS『Tyranny』

2. ENO・HYDE『Someday World』

1. NENEH CHERRY 『Blank Project』

イーノで盛り上げといて、1位はネナ・チェリー! 今年いちばん聴いたし、これからもずっと聴き続けるはず。ロケットナンバーナインをバックに従えた変幻自在のビートとフォー・テットの手腕が冴えるサウンド・プロダクションの中にとけ込むネナの歌声は、かなりタフだった僕の2014年を支えてくれた。エレクロニックだけどオーガニック。誰もが生きなきゃならない毎日を“空白のプロジェクト”だと認める強かさ。つまり、パンクだってこと。

Blank Project

Blank Project

『ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌』

この『ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌』は、もうずいぶん前に買っていたんだけど、なぜか放ったらかしにしていた。ようやく読み始めたきっかけは…レンタルで観直したミシェル・ゴンドリーの『ムード・インディゴ うたかたの日々』がやっぱり面白かったから、だっけ? とにかく、「そういえば、読んでないヴィアンの本が一冊あったはず…」って引っ張り出した次第。

ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌

ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌

手に取ったら、意外なほどあっさり読み終えた。時系列で追った2部構成で、その中のエピソード(タイトル付き)も各々5ページくらいにまとめられているから展開が早くて読みやすい。第1部では、1950年代のきな臭いフランスを背景にヴィアンの「脱走兵の歌」が成り立つ過程が描かれている。第2部ではヴィアンの死後、ベトナム戦争を経て世界中へ広がってゆく「歌」のその後と今が伝えられる。


ご多分にもれず、僕が最初にヴィアンと出会ったのも『うたかたの日々(日々の泡)』だった。誰かにすすめられたのか、雑誌の記事を読んだからなのかは覚えていないけれども、十代の後半に文庫本を読んでみた。で、意味も良さもさっぱりわからずに途中で挫折した。けれども、ヴィアンという人のことは気になって、早川書房から出ていた『ぼくはくたばりたくない』をすぐに買った。こっちは装丁もカッコ良くて、冒頭の「ぼくはくたばりたくない」の一編だけでめちゃくちゃ感動した。それ以来、ヴィアンは僕にとって大切な作家のひとりになった。


作家? そう、ヴィアンという人を誰かに紹介しようと思ったら、たぶんそれだけじゃ足りないんだろうな。
■ジャズ・ミュージシャン(トランぺッター)
■レコードや音楽雑誌にたくさん寄稿した音楽ライター/音楽評論家
■エッセイスト
レイモンド・チャンドラーを初めてフランス語で出版した翻訳家
■物議を醸すハードボイルド作家(別名ヴァーノン・サリヴァン
■レコード会社勤務の音楽プロデューサー
シャンソンの作詞家兼作曲家
■シンガーソングライター
■詩人 


多才といえば、確かにそう。でも、たった34年という短い人生の中で、本当にこんなにたくさんの役割を果たすことができたのかな? 若い頃の僕は、そんなヴィアンに憧れていた。音楽と言葉と…(ヴィアンが言っているように)かわいい女の子以外に必要なものはないってね! 何度目かの挑戦でようやく『うたかたの日々』を読み終えたとき、物語そのものの切なさよりもヴィアン自身のイマジネーションが切なく胸に残った。その想像力がまったくの虚構ではなく、現実の彼の裏返しだと感じたから。アメリカに行ったことがないくせに『うたかたの日々』の最後では、“メンフィスにて”とか“ダヴンポートにて”なんてクレジットを残す周到さ。とかね。


この『ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌』は、冒頭の作者の言葉が印象的だ。

「始めに断っておかなければならないが、このシャンソンボリス・ヴィアンの最良の作品ではない。この歌より優れた歌は他にいくらでもある。」


それでも、作者であるマルク・デュフォーは「脱走兵の歌」だけを取り上げ、入念なリサーチと(ヴィアンほど“架空”ではないにせよ)豊かなイマジネーションを駆使して「歌」の成り立ちから当時のヴィアンの生活までもを克明に描いてゆく。「平和や自由が様々な時代の中で、どんなふうに求められてきたのか?」よりも、ヴィアン自身が「何を望んでいたのか、何を望まなかったのか?」がそもそもの出発点であることが重要だ。「脱走兵」が求めているのは、60年代のラヴ&ピースなどではなく、ビート・ジェネレーションの(体制に背を向ける/歯向かう)姿勢に近い。


「歌」はその可塑性ゆえにカヴァーされ、改編され、レコーディングされ、リミックスされ、コピーされ、ダウンロードされ、歌い継がれてゆく。自由だの平和だのとぶち上げ、しかも“名曲”のラベルが貼り付けられさえすれば、「歌」の生命は永遠かもしれない。確かにそれも大事だけれど、ある意味で分かりきったことだ。


けれども「脱走兵の歌」の歌の誕生はあまりにも孤独で、世に出るまでもかなりショボい。生活の糧と自身の健康状態に翻弄されながら、「仕方なく色んなことに手を出した」ことがヴィアンの肩書きの多さに直結しているとも言える。


誰も歌ってくれなかった「脱走兵の歌」を最初に歌ったのはヴィアン自身だった。「脱走兵の歌」は当時のシャンソン界の人気歌手、ムルージによって歌われることになった。ただし、歌詞は変えられ、歌の持つ真意はねじ曲げられた。そして、オリジナル・ヴァージョンの「脱走兵の歌」を最初に歌ったのは、ヴィアン自身だった。


そのステージが決して聴衆にもメディアにも、(たったひとりを除いては)ほとんど好意的に受け入れられなかったというエピソードが僕は好きだ。60年代初期のニュー・ヨーク、グリニッジ・ヴィレッジのライヴ・ハウスでデイヴ・ヴァン・ロンクのライヴのあとに若き日のボブ・ディランが控えていたように、50年代のパリでしらけたシャンソンのステージを見つめるひとりの若者がいた。彼はこんな言葉を残している。

「ぼくはヴィアンを腹一杯堪能した。彼は青白い口からウルトラモダンな音楽に乗せて仰天するような歌詞を吐きだしていた。ステージ上の彼は幻覚をおこさせるような肉体的様相を呈し、病的な感じだった。彼はストレスを溜め、危険で、辛辣だった。(中略)それを見て、ぼくは思った―〈シャンソンも、そんなに捨てたもんじゃないな。シャンソンでも、多分何かできるんじゃないかな〉」

セルジュ・ゲンスブールは、ヴィアンのステージに通い詰め、心を奪われたと回想している。音楽、歌、そして(何よりも)スピリット。それは、こんなふうに引き継がれていくのかもしれない。いつも焦り、いらだち、妥協し、最後には仕方なく自分でやる。こんがらがったDo It Yourself。病弱な脱走兵。ボリス・ヴィアンはやっぱりパンクだった。


*「うたかた」と「泡」は読み比べるのも楽しい!

うたかたの日々 (ハヤカワepi文庫)

うたかたの日々 (ハヤカワepi文庫)

日々の泡 (新潮文庫)

日々の泡 (新潮文庫)


*「脱走兵の歌」はこの中に。音楽レビューやエッセイも充実。


*ヴィアンによる音楽レビューの決定版!

ボリス・ヴィアンのジャズ入門(単行本)

ボリス・ヴィアンのジャズ入門(単行本)


*ありがとう、ミシェル・ゴンドリー

《おまけ》「ミシェル・ゴンドリーの世界一周展」(東京都現代美術館)で展示されていたクロエの肺に咲いた睡蓮

U2 “FLASHBACKS 4 SONGS OF INNOCENCE” (日本語訳)

U2がフリー・ダウンロードでリリースしたニュー・アルバム『SONGS OF INNOCENCE』のデジタル・ブックレットから(署名はないけれど)ボノが書いた“FLASHBACKS 4 SONGS OF INNOCENCE”と名付けられたエッセイを翻訳してみました。
ラモーンズ、クラッシュ、ルー・リード、そしてディランとブライアン・ウィルソンの名前も出てきます。U2結成当時のダブリンでの思い出。『SONGS OF INNOCENCE』を楽しむちょっとした手がかりになれば良いなと思います。ただし、5億人限定で(笑)。

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FLASHBACKS 4 SONGS OF INNOCENCE
1977年のいつだったか、U2は一緒に音楽をつくり始めた。僕たちはザ・ハイプと名乗ってた。パンク・ロック・シーンに夢中だったけれど、駆け出しの頃のライヴで誰かがこう叫んだのを覚えてる。「もっとパンクにやれよ、モンキーズ!」。奴らの言うとおりだった…。僕はとんがったロック・シンガーやパンクのシンガーみたいには歌えなかったから。僕の歌い方は女の子みたいだった。それがしっくり来てなかったんだけど、それもラモーンズに出会うまでのこと。他の誰にとってもそうだったように。だって、ジョーイ・ラモーンは女の子みたいに歌ってたから。ジョーイはすべての素敵なセイレーンを愛していた…。きみにもモータウンダスティ・スプリングフィールド、ロニー・スペクターが聴こえるはず。きみの心の痛みがジョーイの歌声の中にこだまするのが聴こえるはずだよ。それがジョーイを信じられる理由、ノイズの海で未来へサーフィンするってことさ。


U2の4人で、ラモーンズがダブリンのステイト・シネマでプレイするのを観に行ったんだ。どうやって中に入るかなんて、ろくに考えもせずにね。僕たちはチケットもお金も持ってなかったんだけど…。チケットを持ってた親友のグッギが会場の出口をこじ開けて、僕たちをこっそり中に入れてくれた。そして、世界は時の流れを止めてくれた。僕たちが忍び込むのには充分なほどにね。結局、僕たちは半分しかライヴを観れなかったけれど、僕たちの人生にとっては最高の夜のひとつになったよ。エッジは最初の彼女、エイスリンと外で出会ったことを覚えてるって。ラモーンズのライヴのあと、僕は自分なりのやり方でシンガーになろうと思った。僕には気づきが必要だったんだ…解放してくれる誰かが。


初めての旅は爽快だった。地理的にも、精神的にも、性的にもね。蘭の花やフリーウェイや逃亡中のロックンロール・バンドを初めて目撃する、それは皮膚の下にタトゥを入れられるようなものだよ。永遠に消えはしない。U2にとってはロサンゼルスに行ったことが、まさにそれ。LAはダブリンと正反対で、僕たちはその極端さが大好きだった。エッジとアダムとラリーと僕はカリフォルニアで飛行機を降りて、“これは映画よりもすごい!”って感じでお互いに目を合わせてたことを覚えてる…。まだ空港の中だったのにね! そして、ボブ・ディランの住処を探す巡礼の旅に出た。だって、僕はディランの歌をずっと握りしめてきたから。どんなスーツケースを握りしめる時よりも強く。同じようにブライアン・ウィルソンの住処も探した。彼の家の砂場の中には、ピアノがあるらしいってことになっていたけれど…。僕はビーチ・ボーイズが大好きだった。彼らが与えてくれたんだ。身体に染み込むリズム、心に響くメロディ、心を揺さぶるハーモニーとかをね。ブライアンも女の子みたいに歌ってた。もっと初めての旅って言うと…セックスかな…。自分自身の経験を書くには、注意を払うこと。このテーマを扱う時は、必ず、もっと一生懸命、挑戦すること。


クラッシュが最初のツアーのためにダブリンのトリニティ・カレッジに来たことが、僕とエッジとアダムとラリーの経験値を一変する指標になった。僕たちはその夜、ノイズとアイデアのライオットに精も根も尽き果てて帰宅した。僕たちがちっとも眠れなかった理由は、間違ったベッドで眠ろうとしていたことに気づいてしまったから。僕たちはもう精神的に、霊的にどこかへ移動してしまっていた。ジョー・ストラマーは戦士。ジョーのギターは武器で、言葉は無敵だった。僕たちにはクラッシュが何と戦っているのか/何に反抗しているのかよく分からなかったけれど、魂(ソウル)の代わりにギターで鳴らされる公共広告だと思った。僕たちはそれと契約を結んだんだ。


僕が育った場所はシダーウッド・ロード。素敵な家族がたくさん住んでる良い街だ。僕の世界観を形作ってくれた人たちがいる。今でも気にかけて、愛し続けている。そう、ギャヴィン・フライデーは坂の上に住んでいた。でも、そこは僕たちが十代だった頃、暴力に満ちた場所だった。スキンヘッズ、ブート・ボーイズ、ブレイズ、そしてナックルダスターズとか。ティーンエイジャーのパーティには、そんな奴らがハンマーとかノコギリを振り回しながらやって来た。たくさんの“隠れ家(Hidings)”を覚えてる。そこを貸したり、貸してもらったりした。そのどれもがドアの裏側での暴力とは比べ物にはならないくらい大事だった。夫が妻に暴力を振るう。そして、クソみたいな父親が子供たちに。シダーウッド・ロードには暗く、隠された一面がある。他のどの街とも同じように。そして、すべての人々と同じように。


5番のローウェン家には桜の木があって、僕にとっては、それが世界でいちばん贅沢なものだった。その一家は旧約聖書派みたいで、僕にいろいろなことを教えてくれた。奥深く、意義深い聖書からの引用句。そこで僕は、恐ろしく黒い聖書を広げる素晴らしい牧師たちに出会った。彼らと僕たちにとっては、神が踊るための言葉だ。時々、僕は他のやり方があるんじゃないかと考えるようになった。1分間それを読む。すると、次の瞬間にはそこに入り込む。ルー・リード(神様、彼の魂に安らぎを。)は「切り抜けて行くには、バスいっぱいの信念が要る」って言っていた。そのバスはローウェンでの出来事でいっぱいで、僕はそれに乗り込むことにした。


うちの庭の裏の向こうには野原が広がっていた。僕たちはよくそこで郊外にまで広がる足場に上って遊んだりした。1マイル離れたところに7つの塔を建設している工事現場があったんだ。遊びに行こうと思ったら、塔は建設に反対する人たちでいっぱいで、すべての塔のてっぺんにまで人があふれていた。だから、僕たちは草原の途中で走るのをやめたんだ。でなけりゃ、僕たちが追いかけ回されていたかもね(笑)。夢はいつだって安全だとは限らない。安全だって信じ込めるような場所でもない。残酷な虐待があっても生き抜く人たちがいる。ある人たちにとっては、そうしなくちゃならないからだ。教会の信者たちが暴力によって奴隷にされていないとき、また一緒にやり直すためには特別な償いが必要とされている。正直さが、出発地点だ。秘密がきみを病ませてしまうから。


70年代のアイルランドは辛すぎた。1974年、毎週金曜日の5時半になると僕はタルボット・ストリートにあるレコード・ショップに入り浸っていた。5月17日、バイクで学校に通っていた僕はその日、アイルランドを分割する歴史の中で最も血なまぐさい瞬間をかわすことができた。ダブリンのシティ・センターを爆破するために、3台の自動車が同時に爆発する爆弾が仕掛けられていたんだ。僕の古くからの友達 アンディ・ローウェン(べとべとパンツのデラニーって僕たちは呼んでた)は、父親がストリートの向こう側でゴミくずみたいになっている被害者を助けている間、ずっとバンに閉じ込められていた。その光景は、アンディに取り憑いて離れようとしない。彼はそれを何とかしようとして、世界でいちばんの鎮痛剤にはまっちまった。僕たちは彼のことを歌にしたんだ。それが「BAD」だ。アンディは言う。「ヘロインこそ、世界で最高の痛み止めだ。それに殺されなければね」って。彼はサヴァイヴしたんだ。僕のヒーローだよ。


僕の母はその年に亡くなった。祖父もだ…。母の父親は葬儀のとき、アイリスの花を墓のまわりに供えていたけれど、その2、3日後に彼も逝ってしまった。…美しいアイリスの花。母の巻き毛のように黒いユーモア。それは現実的な魔法のよう。死に対して…僕たちは亡霊の顔が見えるまで色々な方法を探したりする。見つめ続けるだけの試合。それは常に死が勝利をおさめ、僕たちは身近な誰かを失ったまま、損なわれ続けている。僕はアイリスを借りて、音楽で、母の不在を埋め合わせようとした。悲しみのあとに、怒りがやって来た…。そうできるなら、ドロドロの溶岩を岩に変えてみせる…。でも、腹の中で燃えさかるこの類いの炎はそう長続きしなかった。もしもラッキーなら、炎はやがて燃え尽きるだろう。きみを燃やし尽くす前に。


14歳のとき、僕はアリに出会った。ずっと前から彼女のことは知っていたけど。彼女は僕のデートの誘いにOKしてくれたんだ。それは僕がU2を結成したのと同じ月だった。ダブリンの北海岸には、すべての素晴らしい美と同じくらい不可知な砂丘がある。それは海辺の街の本来の姿で、冬になるとさらに素晴らしいんだ。若い男が夏の犯行現場に彼女を連れて(再び)そこを訪れたとき…、2人のどちらかがもっと賢明になれたのかもしれない。でも、そんな時間も(賢明さも)なかった。歌を書くのなら、賢明すぎないように。それは失恋と同じくらい良いこと。そして、完全であるよりもロマンチックだ。僕たちは人生の結末を見つけようと毎日を過ごしている。それが見つからないと失望というカタチで世界を動かしたり、そうでもなかったり。悲しみに終わりはなくて…、だからこそ、僕はこんなふうに愛にも終わりがないことを知ることができたんだ。

*************
「BAD」

文中にはいくつかのキーワードが隠されています。「ギターで鳴らされる公共広告(a public service announcement with guitars)」は、クラッシュの「Know Your Rights」(『Combat Rock収録)から。

そして、「切り抜けて行くには、バスいっぱいの信念が要る(You need a busload of faith to get by)」は、ルー・リードの「Busload Of Faith」(『New York』収録)から。

原文には段落分けがなかったけれども、読みやすく分けてみました。
間違いがあるかもしれないけれど…そこはご容赦ください。よろしくです!

僕なりのELEPHANT STONE(尿管結石)のこと。

[Introduction]どんなに忙しくても、健康だけが取り柄だと思ってがんばってきたのに…。そんな思いがあっけなく崩れ去る日がやって来たのは、今年の6月初旬。出勤途中から腹痛のウェーヴが始まり、何とか午前中の仕事をこなしながらも、昼過ぎにはガマンできないほどの激痛が脇腹を襲いました。ここがすべての始まりです。

その後の精密検査で「尿管結石」と診断されました。

それから約2ヶ月。いま、僕の手もとには「ELEPHANT STONE」と名付けられた尿管結石があります。(スライドギター用の)ボトルネックの底に脱脂綿を敷いたオリジナル保存容器の中で、静かに佇む一片のブラウン・シュガー。真夏の燃えさかる太陽にかざしてみると、反射する小さな光の中に過ぎ去った日々がキラリとよみがえります。2ヶ月という長くも短くもないハンパな日々が。

この手記が「お腹が痛いんだけど、尿管結石かも(涙)」とお悩みの方、ご自身やご家族や恋人が「尿管結石なり」と診断された方、または「ストーン・ローゼズが大好きなんだけど…なにこれ?」という方のちょっとした参考と励ましになれば幸いでございます。 犬飼一郎


6月9日(月/ロックの日◆ 初めてお腹に痛みを感じる。が、数時間で沈静化。
◆ 1回目の通院。問診のみ。
「お腹ピーピーかしら?」という微妙な具合で出勤。午前中は何とか仕事をやり切ったが、昼休みにかなりの痛み。そのまま会社近く(銀座)の総合病院へ。しかし、徒歩10分ほどの距離にある病院に着く頃には痛みが沈静化。とりあえず問診のみで、クラビット錠ビオスリー配合錠(胃腸薬)を2〜3日分もらう。午後には回復。


6月24日(火)
◆ 朝から腹部に激痛。
◆ 痛みの箇所が『腹部左下と背中』とはっきりわかる。
前回の痛みから約2週間後、朝からお腹に違和感。出勤途中に激痛へと変わり、会社の最寄り駅に到着するが一歩も動けずホームの柱にしがみつく。しばらくしてからカフェのトイレに飛び込む(下痢ではなかった)。この頃、仕事の忙しさがピーク(年明け以来、終電帰宅か徹夜、土日出社続き)だったから「疲れているのかな?」という認識。それにしても左下の腹部が痛むのがはっきりわかる。どうしても休めないので、1時間ほど遅れて出社。1日中、痛みをガマンして仕事。
仕事の目処がついた20時すぎに何とか退勤。しかし、あまりの痛みで最寄りの新橋駅(徒歩10分程度の距離)まで歩く気力がなくなる。それでも約1時間かけて駅へ。どうやって駅まで歩いたのか記憶がない。22時前後の電車に乗るものの、座れなかったので途中下車。あまりの痛みにうめき声が出る。生まれて初めて“ハンカチを噛んで”声を殺す。ホームのベンチに横たわって、「救急車を呼んでもらうべきか?」と何度も自問。でも、「そのうちおさまるだろう」という気持ちもあり、空いてる電車に飛び乗って何とか席を確保。
電車に乗ってから奥さんにLINEで状況報告。けれどもLINEだと“痛み”は伝わらないらしく、「お疲れっす!」「マジっすか」「ヤベー」等のスタンプが届き、絶望する。

状況をさらに詳しく説明すると、ようやくコトの重大さに気づいたようで「駅までクルマで迎えに行く」との返信に安堵。けれども痛みはさらに増し、吐き気をもよおすほど。


6月24日(火)夜
◆ 夜間救急病院へ。
◆ レントゲン検査。「たぶん尿管結石」と診断される。
ウロカルン錠(利尿剤)を処方される。
地元の駅に到着するが、ロータリー脇でついにダウン。路上にひっくり返る。ちょうどそれを奥さんが発見し、クルマに乗せられる。汗びっしょりで顔面蒼白でだったそう。奥さんが救急病院に電話。「意識があるなら、本人の説明が必要」とのことで、僕が左下腹部と背中の痛みを説明。「身分証明書と保険証が必要」「担当医がいない場合があるので、応急処置になる場合がある」ことを告げられる。とにかく夜間救急へ直行。
夜間救急に到着。まず尿検査。結果が出るまでしばらく待機。この時は背中の痛みがピーク。いわゆる「ズキンズキン」ではなくて、「絶え間なく金属バットで背中を殴られ続けている」ような感じ。本気で“死”を意識しました。結果、「血尿」とのこと。夜間はCT検査ができないので、レントゲン検査へ。その結果、十二指腸内にガス(おならになる前の気体?)が充満していることが判明。これは十二指腸潰瘍の恐れもあるとのこと。
肝心の腹部と背中の痛みは、レントゲンには映らなかったけれど「ほぼ間違いなく、尿管結石」との診断。「正確な診断のために、CTの再検査」を強く勧められる。25時(午前1時)頃に帰宅。


6月25日(水)
◆ 会社を午前休。


6月28日(土)
イクエモリさんのライヴ・イベントへ。
◆ 飲む→トイレを繰り返す。
◆ オールはキツいので、終電で帰宅。ごめんね!


7月1日(火)
◆ しばらく沈静化していた痛みが朝から再発!
◆ しかし、この日は何とか乗り切る。


7月4日(金)
◆ 総合病院で尿検査とCT。
◆ ウロカルン錠(利尿剤)、ロキソプロフェンナトリウム錠(解熱/痛み止め)、ムコスタ錠(胃の粘膜保護)、ボルタレンサポ(座薬)を処方される。
検査の結果、正式に「尿管結石」との診断が下る。CTで見るかぎりでは、約2〜3mmの大きさ。しかし、この日は『泌尿器科』の先生が休みで外科での診断だったので、後日必ず泌尿器科での診断を受けるようにと念を押される。毎日2リットル以上の水分補給とウロカルン錠の服用を怠らないこと。
お医者様曰く「結石はまだ腎臓にあり、最低でも3ステージ分の痛みが控えている」とのこと。1「結石が尿管に入るとき」、2「膀胱に落ちたとき」、3「チン先から出るとき」。痛みの大きさは人それぞれらしい(涙)。夜はクッキーシーン編集部でのミーティング&飲み会に参加。「とにかく水分をたくさん摂取して、オシッコで流し出すのがベスト」との医師の意見に従うことにする。


7月5日(土)
◆ 映画『her/世界でひとつの彼女』を観る。
◆ 120分をトイレ退出なしで乗り切る。
◆ 上映前にしっかりトイレを済ませておくこと。


7月6日(日)
FacebookおよびTwitterで『尿管結石』を公式発表(笑)。

「僕なりのElephant Stone」
ここ1ヶ月ほど、耐えられないくらいの激烈な腹痛に度々襲われていたんだけど、ようやく金曜日に病院に行くことができました。で、CTの結果、「尿管結石」と判明!
僕なりのElephant Stoneとして、前向きに受け止めたいと思います。 Burst Into Heavenね。
皆さんもこまめな水分補給を!そして、働き過ぎにはご注意を!

◆ 大好きなストーン・ローゼズにちなんで「Elephant Stone」と名付ける。


7月10日(木)
スピッツの武道館公演へ。
◆ 2時間強を乗り切れず。アンコールのMC中にトイレへ!


7月12日(土)
◆ 再び7月4日に行った総合病院へ。
泌尿器科での尿検査と再診断の結果、「尿管結石、確定」とのこと。
◆ ウロカルン錠(28日分!)を処方される。
石が出る期間は人によって異なるらしい。早いと2〜3日、長い場合は数ヶ月〜半年だとか。もっとかかる人もいるらしくて、気が遠くなり始める。この頃の僕のテーマ曲は「What The World Is Waiting For」(世界が待ち続けていること)。


7月12日(土)夜
◆ 映画『グランド・ブダペスト・ホテル』を観る。
◆ 100分を何とかトイレ退出なしで乗り切る。
◆ 終盤〜エンドロールはヤバかった! 終演後、一目散にトイレへ。


7月13日(日)〜21日(日)
◆ ウロカルン錠服用と2リットル以上の水分補給を欠かさぬ毎日。
僕はこの頃、ウーロン茶を入れた1リットルの水筒と600mlサイズのペットボトル麦茶をどこに行くにも持参。1時間に数回の「Waterfall」を繰り返す日々にも慣れました。


7月21日(日)深夜
◆ またもや腹部左下に激痛。
◆ 25時頃に血尿。
日曜返上で出勤。日中は何もなかったのだが、帰宅後になぜか不機嫌。奥さんが「イラついてるのは、お腹が痛いからじゃないの?」と言う。「そうかな?」と思いながら24時頃に就寝。しかし、なかなか寝付けず、気がつくとお腹が痛む。尿意をもよおしてトイレに行くと…真っ赤なオシッコが! 病院の検査だと肉眼では判別できないほどだったけれど、これはヤバい! 血尿の原因は、ステージ2「結石が尿管に入るとき」のアレコレだと思います。


7月22日(月)
◆ 腹部左下の激痛が続く。血尿はおさまる。
◆ エレファント・ストーン、リリース間近? と湧くが不発に終わる。
痛みがひどいので会社を休む。初めて痛み止め「ロキソプロフェンナトリウム錠」を服用。寝込むが熱はない。痛みは夜におさまる。僕の「This Is The One」はまだお腹の中。


7月26日(土)
フジロックへ!
◆ 利尿剤による頻尿と会場のトイレの少なさ、遠さが不安。
◆ 行き帰りの車中での尿意も不安。
ここ最近の利尿剤の常用(&そもそもペーパー・ドライバー)ってことで、奥さんが運転して苗場へ! 午前5時に出発。途中何度もPAでトイレ休憩。お昼すぎに無事に到着して、まずは大友良英スペシャルバンドを観る。トイレの場所と混み具合は、移動しながらしっかりチェック。けれども猛暑とハイ・テンションのせいか、いつもほど頻尿ではありませんでした。全部、汗で出ちゃったのかも。トラヴィスクロマニヨンズデーモン・アルバーンアーケイド・ファイアなどなどお目当てのバンドを(万全のコンディションではなかったけれど)観ることができました。


8月3日(日)
◆ 映画『GODZILLA ゴジラ』を観る。
◆ 123分を乗り切る。
◆ 映画をトイレ退出なしで乗り切る自信がつく。


8月9日(土)
ティム・バートンダニー・エルフマン映画音楽コンサートを観る。
◆ 2時間強を乗り切る。
◆ ここまで来ると、ライヴや映画をトイレ退出なしで観ることに達成感を感じ始める。


8月13日(水)
◆ ついに! エレファント・ストーンがリリースされる。
◆ 無事にストーンをキャッチ。
会社の夏休み初日。午前5時頃にオシッコに起きる。この時、チン先にゴロゴロするような違和(岩)感。「もしかして…」と思い、麦茶をいっぱい飲んで再び寝る。午前8時頃に尿意アゲイン。事前にネットで調べていた情報から「エレファント・ストーン捕獲作戦(男子版)」を始動! ピンセットが必要です(なければ素手でも可!)。

1. トイレットペーパーを丸めて、便器の水没しない位置にセット。
2. 立ちションではなく、座りションのポジションでスタンバイ(便器に座る)。
3. 下腹部に力を入れる(水の勢いで排出の痛みが減る、とのこと)。
4. (尿意とのシンクロ率が高まったら)トイペめがけて、オシッコを噴射!
5. ストーンが出たら、あせらずに目視&素早くピンセットで捕獲。

大丈夫。汚くありません! あとでちゃんと手を洗って、ピンセットと石をアルコール消毒すれば良いだけのこと。ちゃんと石を捕獲して、「リリース確認」することが何よりも重要なんです(ちなみに、こちらは男子版です)。僕の場合は、リリース時の痛みはほとんどありませんでした。オシッコの出始めに「ん?」という寸止め感。ひるまずに排尿を続けると「つるるん!」「ぽんっ!」って感じですっきり出ました。I Am The Resurrection(僕の復活)!!! 

以下、当日のFacebookで公式発表された完結宣言です(笑)

【僕なりのElephant Stone 完結編】
今朝8時半頃、僕のエレファント・ストーンこと尿管結石が無事にリリースされました! まさにWhat the world is waiting forです。
僕のThis is the Oneは、直径約3mm。見た目はそんなにグロくなくて、黒砂糖の破片みたいなスウィーツ系。
朝イチのトイレで予感があって、2回めでつるんと登場。いわゆる『Second Coming』。
痛みは全然なかったです。サマソニに間に合って良かった!皆さん、心配をおかけしまして、本当にすみませんでした。もう大丈夫です。ありがとうございました!

↓こんなカンジです。

ずっとエレファント・ストーンとか言って(笑)ふざけてましたが、いつ完治するのかわからない不安と痛みに対する恐怖心はやっぱりシャレにならなかったです。それでも、こんな僕の「エレファント・ストーン」ネタに付き合ってくれた皆さん、ありがとうございました! そして、家族と友達にも感謝です。みんなの「大丈夫?」のひとことがとても大きな励みになりました。
最後に、バンド名と曲名のほとんどが「尿管結石」とリンクできるストーン・ローゼズはやっぱり最高だな!と。「Made Of Stone」みたいな「尿管結石できちゃった」ドキュメンタリーもこれにて終了です。「Bye Bye Badman」ってことで! ローゼズを知らない方もこれを機会にぜひ聴いてみてくださいね。では!

ザ・ストーン・ローゼズ ロックを変えた1枚のアルバム

ザ・ストーン・ローゼズ ロックを変えた1枚のアルバム

イクエモリ@西麻布BULLET'S 2014.06.28.Sat.

西麻布BULLET'Sで、イクエモリさんをメインとしたライヴ・イベントを観てきました。

イクエさんのライヴを観るのは初めて。元DNAだし、ノー・ウェイヴだし、日本のモーリン・タッカーだぜ!って、かなり楽しみにしてたんだけど、そんな想像をはるかに超える素敵なライヴでした。
小鳥のさえずりからスクリームへ、インダストリアルからトライバルまで…。緩やかに印象が変化するそのサウンドは、とてもカラフル。アクション・ペインティングのようでもあるし、僕たちの体内の音(呼吸だとか心臓の鼓動だとか骨の軋む感じだとか)を聴いているようでもある。ラップトップを使った即興演奏といっても、どこか人懐っこくてチャーミングでした。時々「ポコポコポコッ」「ビュ〜ン」って、カタカナで表現したくなるサウンドが聴こえてきたり。
例えば、子どもたちがイクエさんの音楽を聴いたらどう思い、何を感じるのかな?
ジャンル分けされる前の音楽に触れること。音と遊ぶこと。
音楽って、やっぱり自由で楽しい! 改めて、そう気付くことができました。


これは Kim Gordon & The Sweet Rideのライヴ。メンバーはキム姐さん、ジム・オルークさん、DJ Oliveとイクエさん。超クール!!!

Kim Gordon / Ikue Mori / Dj Olive

Kim Gordon / Ikue Mori / Dj Olive

Dna on Dna

Dna on Dna

NO NEW YORK

NO NEW YORK


会場でduennlabelのカセットを2本購入! 『duenn feat. nyantora returns Ⅰ 』と『Ⅱ』。今、うちのカセット・プレイヤーが壊れているんだけど、大丈夫。〈ダエン・レーベル〉からリリースされている「USB CASSETTE PLAYER CHILL OUT」を買う予定だから。

ルー・リード詩集「ニューヨーク・ストーリー」と雑誌「モンキー」のこと


雑誌の良いところ、それは“雑”ってところ。お目当ての記事や情報に辿り着くまでに、思いがけないコトバが目に飛び込んできたりする。こっちの思惑と合っているようでいて、ちょっとズレたりするその“雑”さが良い。本屋でふと手にした雑誌(文芸誌)モンキーを斜め読みしながら、そんなことを思った。

モンキーVol.2の「猿からの質問」というコーナーで、レイ・ブラッドベリの作品にちなんだ〈華氏451度質問〉が投げかけられている。こんなふうに。

もしあなたが、一人ひとりが一冊の書物を記憶する抵抗運動に加わるとしたら、何という書物を選びますか。また、その理由はなぜですか。

それに答えるのは作家、ミュージシャン、生物学者など14名の方々。読み始める前に、僕も少し考えてみた。サリンジャーカポーティ、中也、手塚治虫の「火の鳥 鳳凰編」かな、それとも…。

そういえば、学生時代に同じ質問をされたことがあった。詩を学んでいた頃、先生は「ただし、詩集のみで」と言った。

そんなことを思い出しながらページをめくる。谷川俊太郎さんが、菊地成孔さんが、あの人が、この人が、思い思いの一冊を選び、言葉を添えている。そこで、作家の柴崎友香さんが選んだ本に目が留まった。

「詩集 ニューヨーク・ストーリー」ルー・リード

僕が先生への回答として用意した一冊がこれだった。他の生徒が中也や朔太郎、谷川さん、ブレイクなどを挙げる中、「僕は、ルー・リードです!」と。半分は本気で、半分は“他人と違うモノ”という半端さが、そのとき急に恥ずかしくなった。でも、先生は大真面目にこう言った。
「詩として? それとも歌詞としてですか?」
「両方です。聴くし、読みもします」と僕は答えた。その後のやりとりは覚えていない。

20年以上たった今もルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴き続け、この詩集を読み続けている。長らく絶版になっていたけれど、ようやく復刊されて良かったと思う。モンキーに綴られている柴崎友香さんの文章にもあるとおり、手に入れた人にとっては「とてもだいじな本」になるはずだから。今なら、恥ずかしくもなく、迷うこともなく、僕はこの一冊を挙げるだろう。

ニューヨーク・ストーリー: ルー・リード詩集

ニューヨーク・ストーリー: ルー・リード詩集

MONKEY Vol.2 ◆ 猿の一ダース(柴田元幸責任編集)

MONKEY Vol.2 ◆ 猿の一ダース(柴田元幸責任編集)

さよなら、フィリップ・シーモア・ホフマン。


グラース家の困った長男の名前をミドル・ネームに持ち、いい感じのデブ専(褒め言葉!)俳優として僕たちの前に現れたフィリップ・シーモア・ホフマン。フィリップでも、ホフマンでもなくて、長ったらしい“フィリップ・シーモア・ホフマン”って略することなく呼びたい名前。そんな彼が2月2日に、ニュー・ヨークの自宅で亡くなってしまいました。バスルームで発見されたときは、腕に注射器が刺さっていたとのこと。今どき、キース・リチャーズでも眉をしかめるロックンロールなエンディングだと思う。まだ46歳。大バカ者め!
もしも、神様が映画監督なら、そのバスルームの1シーンを切り取ってボツにしてもらいたい。2月2日を再編集して、フィリップ・シーモア・ホフマンが生き続ける人生の別ヴァージョンを観ていたかった。そこに、僕たち観客が計り知れない苦悩があったとしても。


僕が最初にフィリップ・シーモア・ホフマンを意識したのは、やっぱり『ブギー・ナイツ』のスコッティだった。マーク・ウォルバーグ演じる主人公のダーク・ディグラーに恋するロン毛&タンクトップの繊細な(…でも、見た目はキモい)ゲイ。「キミのためにクルマを買ったよ」とかキスを迫って拒絶されるとか…、脇役ながらも強烈なインパクトを残してくれた。それ以来、意識しなくても「観たい」と思った作品には彼の名前をクレジットに見つける機会が増えた。特にポール・トーマス・アンダーソン監督の作品では欠かせない存在に。05年には『カポーティ』で、第78回アカデミー賞で主演男優賞を受賞。僕はカポーティフィリップ・シーモア・ホフマンも好きすぎて、この作品をまだ観ていない。「いつかゆっくり観るのだ!」と楽しみに取っておいた1本。それなのに、まったく。本当に切ないじゃないか。

あえて順位はつけないけれど、僕が観たフィリップ・シーモア・ホフマンの作品をピックアップします。デブや変態やオタクを演じさせたら史上最高。でも、本当は良い顔&最高の演技力。彼がマイノリティを生き生きと演じたことが、90年代から現在までの映画を面白くさせていたことは言うまでもないこと。涙。


『ブギー・ナイツ』(97年/ポール・トーマス・アンダーソン


ビッグ・リボウスキ』(98年/コーエン兄弟


マグノリア』(99年/ポール・トーマス・アンダーソン


あの頃ペニー・レインと』(00年/キャメロン・クロウ


『パンチドランク・ラヴ』(02年/ポール・トーマス・アンダーソン


カポーティ』(05年/ベネット・ミラー


脳内ニューヨーク』(08年/チャーリー・カウフマン


パイレーツ・ロック』(09年/リチャード・カーティス


マネーボール』(11年/ベネット・ミラー


『ザ・マスター』(12年/ポール・トーマス・アンダーソン