「海炭市叙景」を見て。

僕の祖父は、和歌山県那智勝浦町の造船ドックで働いていた。真夏の照りつける日差しがオレンジ色に変わる頃、僕は同年代のいとこと3人でおじいちゃんをドックに迎えに行く。それが夏休みの日課だった。ドラム缶で水浴びをする男たち、ドックの外で煙草を吸う男たち、巨大な船体に掛けられた長い梯子を降りてくる男たち。その中にペンキやコールタールで汚れたランニングシャツと作業ズボンの祖父がいた。爪が真っ黒になった指で船を指差しながら、祖父が言った。「あそこの船の名前とその横のマークはな、じいちゃんが書いたんやで」。でも、船が大きすぎて僕には見えなかった。憶えているのは、潮風と汗とペンキとコールタールの混ざった強烈な匂い。僕はその匂いが好きだった。家にも学校にもない強い刺激。いつか僕も大きくなったら、おじいちゃんやドックの仲間のように男らしく、強くなれるのかな。そう思っていた。

海炭市叙景」の冒頭から、僕の胸にはむせ返るほどのあの匂いが蘇ってきた。

北海道函館市をモデルにした架空の街“海炭市”を舞台に綴られるいくつかのストーリー。造船所で働く男と妹のエピソードを皮切りに、ある年の年末が描かれてゆく。時代と共に変貌する地方都市とそれに翻弄される人々の暮らし。何気ない日常のやりとりが抑えた色彩の画面に映し出される。どれも行き場のない、問わず語りだ。

でも、決して救いようのない物語ではない。時は流れている。僕が見た場面は哀しいかもしれないが、その先は確かにある。オムニバス形式で時間軸が交差するストーリー展開、そしてプロの役者以外も起用したキャスティングにジム・ジャームッシュの演出を連想した。ドライな眼差しの向こうに見えるほのかな光も。ジム・オルークによる音楽も秀逸だ。場面をつなぎ、やがてひとつになる。音楽それ自体もストーリーのひとつだと思える。

僕の記憶の中にある、むせ返るようなドックの匂いは今も変わらない。けれども、僕のまわりでも時は流れている。始めから強い男なんていなかったのかもしれない。大人になった今、僕は海炭市で働く男たちに心を重ねた。この先を思い描く力さえあれば、大丈夫だ。
映画 「海炭市叙景」 公式サイト

原作:佐藤泰志 監督:熊切和嘉
出演:谷村美月竹原ピストル加瀬亮、三浦誠己、小林薫
音楽:ジム・オルーク