映画『おクジラさま』を観て。

僕の祖父と祖母が住んでいた和歌山県那智勝浦。そして、日本と世界の「捕鯨問題」として何かと槍玉にあげられるのがその隣町、太地町だ。僕にとっては子供の頃のたくさんの楽しい思い出がある場所。太地の「くじらの博物館」には何度も遊びに行った。


09年に公開されたドキュメンタリー映画ザ・コーヴ』は見ていない。そのヒステリックな表現に煽られた報道と論争にうんざりしていた。それでも揺らがないのは「僕はどう転んでも100%太地町の側に付く」という思い。けれど、その思いもまたヒステリックな怒りになるかもしれない、僕は自分自身に対してそう思っていた(今もそう思っている)。


だからTwitterやFBで意見することもなく、めったに友だちともその話をしない。そもそも誰も「捕鯨問題」なんかに興味ないでしょ? 僕はただ故郷とも言える小さな太地町がこのSNS時代に情報とやらでリンチされているのを見ていられないだけだ。けれども、成すすべもないという半端なところにいるという自覚もある。


『おクジラさま』を観た。てっとり早い答えなどない。それはわかっている。そして、やはり解決策の糸口さえ見えないことがハッキリする。観終わったあとのこの「モヤモヤ感」はなんだろう? 太地町を知らない、捕鯨問題は何となく知っている、そんな人が観たらどう思うのかな?


一般論として「捕鯨は世界的な問題」「人道的な問題」だという。だとしたら日本の政府はどう対応しているの? 各国の捕鯨の実態を知らしめる数値的なデータは? この映画には、そんな大局的な裏づけは一切ない。啓蒙ではないのだろう。


映し出されるのは、太地の漁師さんたちの日常、その町に溶け込もうとする外国人ジャーナリスト、対話を求める右翼ふうの活動家、そして監視を続けるシーシェパードのスタッフたち。そして、そこには「議論」はないけれども、少しだけ人間同士らしい「会話」が生まれていることに気づかされる。太地町が世界を相手に議論することは、これから先も厳しいだろう。それでも小さな会話は途切れることもないはず。それは確かにかすかな希望だ。でもそれだけでは…というのが、僕の「モヤモヤ感」につながっているのかもしれない。


エンディングロールでチラッと映るシーシェパードのスコットの姿が静かに衝撃的だった。15年に団体から脱退した彼は、いま家庭的なパパになっている! で、もう太地には来ないワケで。「関係ない」いま、彼は何を思うのだろう?


小さな町で出会い、語り合えばお互いを知る。仲良くなれるかもしれない。人はそんな可能性を秘めている生き物だと思う。それぞれがどんな事情を抱えていたとしても。でも、その事情とやらがイデオロギーに置き換えられたときに厄介なことになるね。「分かり合える」という理想論よりも、「分かり合いたい」という思い。そこが始まりなんだろう。


捕鯨問題」と太地町へ目線を向ける、という意味では多くの人に観てもらいたいと思う。ただし、個人的には、捕鯨問題というよりも、映画そのものに気になる点があったのも正直なところ。この『おクジラさま』というタイトルは良くないと思う。「お」と「さま」の組み合わせでは、伝統や崇拝を連想させるし、それに対する言及や表現が作品中になかったのも気になった。そして、もうひとつは制作者の「中立」というスタンス。確かに捕鯨問題でYes/Noの立場を明確に世界に発信するのは、炎上のリスクが大きすぎるのかもしれない。でも、それゆえに論点がはっきりしない。真の表現には「中立」などないはずだ。そして、正論ほどつまらないものはない。「答えは観客にゆだねられる」と言えば聞こえは良いが、それも作者の思いがあってこそ。僕はそう思う。


書籍版も読んでみました。映画では表現されていなかった部分がフォローされているけれど、「バランス」を取るという姿勢がやっぱり歯がゆいです。

「鯨問題」は10個のQ&Aでおさまるとも思えないよ…。
鯨問題に関するよくある質問と答え:水産庁